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三度の「三年大変様」
〜8年間の上海駐在を振り返って〜

八木通商(株)上海代表処前首席代表 竹下 晃治
 
 去る4月20日に8年半にわたる上海駐在生活を終えて正式に帰国した。この間上海は文字通り天地を覆すような大変化を遂げた。天には高架道路が連なり、地には地下鉄が走るようになった。上海市政府が言う「三年大変様」を三回経験したことになる。赴任した1993年がどんな年であり、わずか1年後の1994年にどう変わったかを振り返って見るだけでもかなり激動するさまを目の当たりにし、貴重な体験ができたと感じている。
 1993年は1989年の天安門事件後の沈滞と保守化のムードのあと、1992年に小平の南巡講話が改革・開放を一段と加速せよと江沢民にハッパを掛けた結果 燃え上がってきた年であったと言える。1993年と1994年のはざまに重大な改革の措置が三つの面から発表され実施に移された。


1)金融・外為改革
 1993年12月30日に人民元レートの統一と外貨兌換券の流通廃止が公表された。我々にとっては寝耳に水で、当日に新聞、テレビの報道で初めて知った。外国人旅行者や出張者はホテルに張り出されていた告知文で知らされた。人民元の公定レートは1ドルが5.8元であったが、調剤(為替)市場では10元を超えた時もあった。だから貿易企業は1ドル5.8元で輸出契約を結ぶと約2倍の人民元収入があり、コスト割れでも膨大な為替差益を上げるという異常な状態であった。これを50%切り下げた8.7元で変動相場制を始めるというものであった。
 一方、外国人、外資系企業は1980年から外貨兌換券という別の元札を使うことを強制されていた。現地雇員への支払いも友誼商店での買い物、タクシーの支払いもこれであった。兌換券は外貨に交換でき、輸入品を買えたため多くの中国人が溜め込んでいた。これが一夜にして流通停止となったためパニック状況に陥り、10分の1の価値で買い取るという人が街に現れた。実際は12月30日付けのレートで銀行で交換できることが後に分かったのだが。人民元切り下げに伴い、現地雇員は50%の昇給を要求し、航空会社・電話局・観光地などは外国人、外資系企業を対象に50%増し料金を設定した。

2)税制改革
 増値税・消費税・営業税・所得税など一連の税法が全国人民代表大会を通過した。ただし、いずれも実施細則は国務院が決定するということで、具体的にどのように施行されるのか分からないことばかりであった。増値税では、輸出には零税率を適用すると明記されているにもかかわらず相変わらず徴税され、「実施細則が決まれば必ず還付される。国を信用してくれ」と税務局に言われて納め続けた。「還付されるべき税金」として財務処理していたのだが、1994年の夏ごろから変な噂が飛び交い、結局外資系企業には還付しないからコストに算入するようにという税務総局の通達が出ていることが分かった。わが社のうち一社の合弁会社は現地素材を多く使っていたのでそれまで納めた250万元もの税金が還付されないという目に遭った。それでも赤字にならなかったのは前述の為替差益の出る契約のおかげであった。
 中国企業から増値税を17%徴収し、9%だけ還付するという時期があった。いまだに零税率は実行されていない。現行の「免除・控除・還付」の方式は零税率とは別物である。国が納税者をだますという状態が続いている。
 現行の個人所得税は1994年から実施された。外国人に対しては4,000元も控除を認めているというが、我々日本人はどうやって4,000元で家族と生活できるのか?全く現実を反映していない基準である。

3)労働法
 1993年当時から土曜日は事務所は半ドン、工場はフルタイムだった。そろそろ隔週土曜日を休みにし、翌年か翌々年には完全週休2日制に移行しようかと考えていたところ、突然次月のメーデー休みから40時間労働制、完全週休2日制を実施せよとの中国政府当局からの通知があった。従業員は喜ぶが経営者はどう対処するか慌てふためくことになった。休日・祝日の200%増、300%増という残業手当の負担が重くのしかかった。今は年3回の7連休も定着している。
 このように中国では何の前触れもなく突然びっくりすることが出てくる。心の準備などあろうはずなく、ただろうばいするしかない時も多々ある。我々外国人にとって不合理と思われることも日常茶飯事である。しかし中国でうまく生活し、仕事するためにはいちいち慌てていたら身も心も持たない。ここは先人の教えである三つの「あ」を肝に銘じるのが良いと思う。すなわち「慌てず、焦らず、あきらめず」である。結局この国では何とかなるのである。
 インフラ整備は目を見張るものがある。内環南回り高架道路が1994年12月に開通したときは感激した。今はなき日航龍柏ホテルから事務所の聯誼ビルまでホテルのバスで1〜1時間半かけて通勤していたのが20分になった。当時浦東にはテレビ塔ぐらいしか高い建築物はなかったのが、今は地下鉄で森茂ビルへ通勤である。その地下鉄も御堂筋線並の混雑である。
 家族で住めるマンションが1994年から古北新区(市中心部から西に車で約20分、日本人居住者の多い地域)に出来始めた。工事現場の中のような所に住み始め、すき焼きが食べたいという家族のためヒルトンホテルへ行き、肉を薄く切ってもらってきたものだが、今はあちこちで神戸牛のしゃぶしゃぶが食べられる。三度移転した日本人学校も当時100名余りの生徒が今春は900名になるとか。
 わが社(本社:大阪市中央区、従業員346名)は1962年に友好商社に指定されて以来40年にわたって対中貿易・投資を続けている。文革の苦しい時期も経験してきた。1989年3月に最初の合弁会社を設立し、天安門事件直後の6月10日に上海経由で北京入りし、建築入札を行ったのは大きな決断であった。今わが社の在中投資企業は7社になり、すべて順調に経営されている。
 上海は1992年以来10年間連続して二桁成長を続けている。これからの10 年で上海がどう変わるか、2008 年の北京オリンピック、2010年におそらく上海で行われる万博を経た10年間はもっと大きな変化があるものと信じる。
 私自身は今しばらく仕事を通じて上海とかかわりをもち続けるだろうが、10年後が大変楽しみである。その時に上海など沿海地区以外の内陸がどこまで発展しているだろうか、こちらも楽しみである。わが国の発展は中国と切り離せない関係が益々強まるだろうし、中国とうまく付き合って行くことがわが国にとって大切であると思っている。

(八木通商(株)上海代表処前首席代表 竹下 晃治)